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 現在、ドリフと云えば志村けんが代名詞となっている。
勿論グループの人気を決定的にしたのは加藤茶と彼であるが、ドリフターズというグループそのものの歴史は古い。
 同名映画とともにリバイバルヒットをした「スタンド・バイ・ミー」。
それを歌うベン・E・キングの所属していた黒人コーラスグループの名前が“ザ・ドリフターズ”だと聞いて、おやっ?と思った同世代も多いのではないか。
本家ドリフターズと我々の知るドリフターズでは、あまりにイメージがかけ離れていているからだ。
しかし、これは偶然ではない。
そこにこのグループの曲がりくねった足跡を見ることができる。

 このグループは、著名なウエスタンバンドらの合併に始まる。
東京ウエスタンボーイスのメンバー岸部清を中心に結成された際、アメリカのザ・ドリフターズに憧れていた岸部が、彼らの息子のような存在でありたいと「サンズ・オブ・ドリフターズ」と命名した。
これがドリフターズ起源であるが、そこに現メンバーはまだいない。
 サンズ・オブ・ドリフターズは、山下敬二郎(柳家金語楼ご子息)をボーカルとした本格的ウエスタンバンドとして人気を集めた。
山下脱退後も井上ひろしやボーヤから昇格した坂本九がボーカルとなって日劇ウエスタンカーニバルを賑わせたが、無論そのステージはコントとは無縁であった。
 変化が訪れたのは、岸部から桜井輝夫へリーダーが譲られた頃である。
バンドを移れば給料が上がるという当時の風潮の他に漏れず、サンズ・オブ・ドリフターズもメンバーも激しく入れ替わった。
バンド名も「サンズ~」から「井上ひろしとザ・ドリフターズ」と変わり、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ(Vo.木の実ナナ)」になった時、桜井の意向でコミカルな要素のテコ入れが始まった。
小野ヤスシ、ポン・青木といったコミカルなメンバーが招集されると、バンドのイメージが変わることを嫌った古参メンバーたちが脱退していく。
前後して、ジミー時田バンドのベーシスト碇矢長一とミッキー・カーチスの後ろでドラムを叩いていた加藤英文、さらにジャイアント吉田や猪熊虎五郎が参加。
これにより、グループはそのコンセプトを大きく変え、コミックバンド「ドリフターズ」の基盤が築かれた。

 その後、桜井がリーダを碇矢へ譲り表舞台から身を引き、ドリフターズは碇矢体制へと変遷を遂げていく。
彼がリハーサルの鬼であることは、現メンバーの証言から広く知られるところであるが、リーダとなった碇矢の厳しさとコントの方向性の違いよって小野ヤスシ以下ほとんどのメンバーが脱退の意向を示す。
これが世に言う「ドリフターズのクーデター」であり、同時にコミックバンドドンキー・カルテットの結成のきっかけともなった“事件”でもある。
彼らとともに脱退するはずだった加藤は、碇矢の強固な引き止めと小野ヤスシの思惑、加えて本人の懐疑心で残留を決意したのだが、残った僅かなメンバーでの活動は困難を極めた。
 そこで、中央大学時代からハワイバンドでギターを弾いていた高木友之助と彼が紹介をしたボーカリスト仲本興喜、そして一時期皆が所属をしていた「クレージー・ウェスト」の荒井安雄を迎え、1964年、オーナー桜井輝夫以下、ボーカル仲本興喜、ベース碇矢長一、ドラム加藤英文、サックス綱木文夫、ギター小山威、高木友之助、キーボード荒井の布陣で、新生ドリフターズが船出をした。
現在、目にすることのできるドリフのブロマイドに写る仲本工事“ではない”眼鏡の人物は、このサックス綱木文夫氏であるが、残留を望んだ彼を碇矢がコメディの資質に乏しいと脱退させたと伝わっている。
 しばらくして、桜井がマネージメントを渡辺プロダクションに譲渡し、同時期ギターの小山が体調不良を理由に脱退。
事務所の先輩格であるクレージー・キャッツのリーダーハナ肇が、各メンバーの芸名を命名したのを機にバンド名を変え、ここに「いかりや長介とザ・ドリフターズ」が誕生したのである。
 コミックバンドとして営業に走り回っていたドリフターズであるが、徐々にテレビ番組への出演が増えるようなると、いかりやは益々ドタバタコントへと傾倒していく。
いくつかの看板番組を経て、69年にあの「8時だョ!全員集合」が始まるのだが、そこからの飛躍は記述の必要もないだろう。

 わたしは、小学生の時に日劇のドリフターズ公演を観ているが、後にも先にもあれほどドリフで笑ったことはない。
毎週、生の舞台を作っている実力は揺るぎ無いものと確信したのだが、それにしても、わたしを含め世間が抱いているドリフのこの印象と、前身であるサンズ・オブ・ドリフターズの実績はあまりにもかけ離れていはしまいか。
国民的人気を博したコメディグループが、全く異質のスタートをきっていたという事実はなんともユニークであり、サンズ~結成メンバーからすれば想像すらしない着地点であろう。
 このことについて、いかりや氏は著書「だめだこりゃ」で、自分たちは二流バンドであり、どう転んでもクレージー・キャッツにはなれないからと、コント嗜好の理由を記している。
記述の通り、(個々の活動はともかく)全盛期のドリフに音楽との結びつきは希薄だ。
バンドの様相を残していたビートルズ武道館公演の前座でも、2分のステージは上手下手へほぼ走り回っているだけであった。

 だが、わたしは、彼はこのグループが歩んできた音楽的歴史を捨てていなかったと思っている。
コメディアンとしてビッグネームとなった責務が、コントを作り込む日々に追い立てたのであろう。
が、その中でも長さんは終生ミュージシャンの矜持を持ち続けた、そんな気がしてならない。
どこかで音楽と折り合いをつけたいからこそ、コメディ志望の弟子が増える中でも、彼は本気で桑田佳祐をスカウトしたのではないか。
 彼が、いつの日かグランドサンズ・オブ・ドリフターズに戻る夢を持っていたとすれば、DRIFTER-漂流物、放浪者-の奇妙な漂流にも変わらぬアイデンティティの一端を垣間見ることが出来る。

あくまで思い込みの域を脱しないが、わたしは、長さんが黙々とベースを弾くキリンラガーのCM映像を目にするたび、そうであって欲しいと思うのである。
# by takei-wajin | 2012-03-13 13:22 | Trackback | Comments(0)
 昨晩、荻窪アルカフェで開催された「卒業合唱を歌う会」という企画に行って参りまして。
過日、宴席で誰とはなしに中学時代に歌った合唱曲「大地讃頌」で盛り上がりまして。
程なく、アルカフェさんのインフォにこの企画見つけ、一も二もなくエントリーしたのでございます。
これ自体卒業式の定番ではありませんが、うちの中学では歌ったのでいいでしょう。

オーナーご夫妻を合わせて十名も、男性しかもテノールの比率が高いアンバランス合唱隊が出来上がりました。
しかし、ソプラノ、バスパートがお上手でね、そのうえあるカフェご夫妻は本職ですから、それなりに混声合唱になりましたよのさ。

この日の課題曲は、大地~のほかBELIEVE、旅立ちの日に、巣立ちの朝の4曲。
殆ど知らないので、みなさんの歌声に探り探り乗っかってみましたが、やはり大地讃頌一曲入魂。

計三回すべて絶唱し、汗かきました。
いやぁハモる爽快感は気持ちいい。
お陰様で、30年ぶりに真剣に歌うことが出来ました。
歌いながら中学時代の体育館に戻った気分にもなったし。

次回は、もっと大きな即席合唱隊で楽しみたいですな。
# by takei-wajin | 2012-02-23 12:49 | Trackback | Comments(0)
細野晴臣&春風亭昇太共演というので、ニコニコしながら掲題の企画を観に行きました。
第一回だそうな。



MC寒空はだか(初見)の紹介で出演者登場のOP後、まず昇太師匠の高座から。
大向うから「待ってました」の掛け声(あたし)

昇太志の輔仲良しコンビの姫路城旅行から始まったマクラですが、唐突に石川遼クンが銀座で接待されたらという話題に飛んじゃって、なんだか散らかっちゃっている感じ。
蓋を開ければ後者は崇徳院(一瞬もしや喬太郎師の「擬宝珠」かと)のマクラだったのですけれども、それも随分雑な出来でしてね。
柄にも無く探り探りなのか、この日の昇太師匠は全体を通してどうも調子が悪い。



その後に登場したMC兼務のスタンダップコメディアン寒空はだかが面白かったですね。
ネタの飛び具合も、こちらはスムーズに進んでいました。
皇室漫才は可笑しかった。

仲入り前に、もう一度昇太師匠登場して、この日からレコチョクで配信が始まったオリジナル「城好きの人」を熱唱。
なるほど、無理矢理入れ込んだ姫路城のマクラはこのためだったか。
ただし、ムーンライダーズの岡田徹氏が作曲したこのムード歌謡調が難しい曲で、まったく歌いきれない師匠でした。


仲入り「ここだけは写真ジャンジャン撮ってブログに載せて下さい」とポーズをとる昇太師匠


仲入り後は、細野晴臣とそのバンドのライブです。
高田漣、コシ ミハル、sakerockのドラマーら小粋なメンバーで素敵なナンバーを聴かせてくれました。
マンドリン、スティール・ギター、アコギにエレキのスライドと大活躍の高田漣さんが、遠巻きだとどうしても大山英雄に見えて困ったけど、一曲目からHoSoNoVaの中でも一番好きな「悲しみのラッキスター」が聴けて嬉しかったね。
その後も、世界中の古い唄を10曲ほど歌って、のんびりゆったりした気持ちのよいステージでした。
この日特筆すべきは照明-ライティングで、装飾もないシンプルな舞台を暖かい色で包んだり、キリッと締まった寒色のスポットで望郷を表したりと、効果的に効いていました。


東京っぽいというのがコンセプトのこの企画、細野さんのMC効果もあって終始「なんとなく」な雰囲気のライブでした。
# by takei-wajin | 2012-02-14 09:07 | Trackback | Comments(0)
お客様は色を選びに来る。

西荻のセレクトショップさん
高円寺の美容室さん
代々木上原のカレー屋さん
世田谷代田のカフェさん
大久保のバーさん
荻窪のお寿司屋さん
代官山のオリジナル服飾ブランド初の直営ショップ

ここ数ヶ月でお越しになった、ご自身の店を開くオーナーさん。

お店の壁の色を買いにくるのだ。

今日は、横浜の住宅街にオープン予定のセレクトショップのオーナーさんたちがお見えになった。


一概に色を選ぶといっても多岐に渡る。
外の壁の色、室内の壁の色、天井の色、棚の色、扉の色、枠周りの色、シャッターの色、装飾の色。
ここにお越しになるまでに大きく大きく膨らんだ空間のイメージを、色見本に落とし込みにいらっしゃる。
参考にする切り抜きをお持ちになって、3000色以上の色の中から自分だけの色を選ぶのだから、1色に2時間かかることも稀ではない。

わたしは、カラーコーディネーターの資格を持ってはいるけれど、そんなものは見事に役に立たない。
せいぜい、ライティングによる見え方の違いや、色を構成する顔料情報からイメージを膨らませて差し上げるくらい。
それほど皆さんは、強いイメージを持って臨んでいるから。

だから、わたしがすることは、オーナーさんが具現化した色を更に具体的に選び提案する作業。
どんな部位に使うか、素材は何か、どれくらい使うか、いつ使うか(作業工程のこと)、何人で使うか、艶加減は?そしてコストは?
それらの条件に基づいてアイテムをチョイスする、それだけ。

その過程でわたしは得難いもの得るのだ。
みなさんの情熱を間近で感じられること、これこそに価値がある。

転職、独立をして起業する燃えたぎる魂は、自身の城の創造にそのまま反映される。
当社は、躯体やデザイン、装飾をコストの問題で諦めざるを得ず、やむなく飲み込んだ後に訪れる場所。
だからこそ、最後の砦として色やテクスチャーは譲れないのである。
そんな、強烈で眩しい輝きに触れる瞬間が何よりも嬉しい。
と、同時に彼らのパワーに気圧されず、支えて尚押し返すだけの足腰-提案力であり知識、経験、情報-を鍛えるモチベーションになっているのだ。




ここまで書いて締め括れれば、クールでスマートでカッコイイんだけど、そんなことは業務の中で一握りにも満たない。
99%以上の現実は、実に泥臭いものです、ハイ。
# by takei-wajin | 2012-02-08 17:49 | Trackback | Comments(0)
何歳のことだったか。
初めて野球帽というものをかぶった時の話だ。

伯父が買ってくれたそれは、大人気の巨人の星をあしらった所謂キャラクターもの。
巨人のGY帽子ではあるが、樹脂製のツバにアニメのイラストが貼られた全体がベージュ色という、当時の商品に多くみられる基本無視も甚だしい商品だった。
とはいえ、巨人どころか野球もよく分からない小児。
しかも、タイガーマスクと並んで花形満の赤いバットが大好きだった子供にとっては関係のないこと、大いに気に入り家の中でかぶっていた。

翌日。
会社帰りの父親が買ってきたのは白と黄色を黒で縁取ったTHマーク。

阪神ファンの親父は、たとえキャラクターものであろうと息子が嬉々として巨人の帽子をかぶっている事実を見過ごすわけにはいかなかったのである。
わたしから帽子を取り上げるとGYを剥がし、祖母にタイガースのマークを縫いつけさせて、「これこそが正しい野球の帽子だ」と満足そうにいいのけた。

こうして、ツバに星飛雄馬のイラストをあしらったベージュ色の阪神タイガースの帽子という代物が出来上がったのである。
分からないとはいえ、流石にこんなものかぶれないと抗議をしたが受け付けてもらえない。
結局けったいな帽子が残った。
そして、同時に父親の恐ろしいこの固執をもしっかり受け継いでしまったのである。
その日からわたしは、東京に居ながらにして阪神タイガースファンの道を辿ることになった。

時は流れ。
今日、息子にプレゼントが届いた。



同じく阪神ファンの従姉が買ってくれたものだ。




こうして彼も虎党の道を歩んでいくのであろう。
# by takei-wajin | 2012-01-27 11:10 | Trackback | Comments(0)
17年前の今日のことは、いまでもよく覚えている。
当時家族で古い借家住まいをしていた。
微睡みの中、雨戸がガタッと音を立て、寝床がわずかに揺れた。
古い家屋でもそれほど大きく揺れなかったのだから、殆ど気にも留めずにいつものように床から這い出た。
ジパングあさ6では、速報が入ったものの最初のうち普段通りに角田アナが中継していた。
まさか、あんな大災害になっているとは思いもせず出かける支度をした、黴や埃の臭いと1月の寒さが応える自室の風景を今でも思い出すことができる。

1995年は本当にいろいろなことが起きた年だった。
オウムが大暴れをして地下鉄サリン事件が起きたのもこの年。
珍しいハイジャックが起こり、韓国ではデパート崩落で大きな被害が出た。
野茂英雄がロサンゼルスに渡ったのも、無論WINDOWS95が世に出たのもこの年だ。


95年は個人的にも変化のあった年。
5月に一度目の結婚をし、暮れにずっと同居していた祖母が他界した。



振り返って忘れられない出来事が立て続けに起きた1995年は85年と共に今でも強烈に印象に残っている年でなのだ。



1985年

それはタイガース2年ぶりのリーグ優勝した年。
# by takei-wajin | 2012-01-17 12:50 | Trackback | Comments(0)
テレビで、三ツ矢雄二を一週間で三回も見かけた。

何故今頃?

おネエタレントがブラウン管を賑わせていた頃ならばわかるが、それも下火となったこの時期に商品価値があるのだろうか。

ゲイを公言している声優にして作家、舞台監督をもこなす三ツ矢雄二は、今年57歳になる。

確かに、タッチの上杉達也からあの独特なマイケル・ジャクソンの吹き替えをしたゲイというのは、十分価値を持つだろう。
最近では、そこを訊かれると「グレーゾーンです!」と答えるひと言ギャグがそこそこ決まりだしているようだ。

しかし、小学生の頃、6つ上のオタクの従姉に連れられて、なにも分からず虎ノ門ホールや日本青年館のコンサートに行ったことのある身としては、この降って湧いたようなプチブレイクに驚きを隠せない。
もっとも、バラエティにそこそこ馴染んでいる姿に、ともあれ安堵してはいる。
プロダクションの社長に収まった矢先、体調を崩して入院したことも、仕事を選ばない理由なのかも知れない。

二人でNYにブロードウェイ観劇に行く親友戸田恵子、後輩の山寺宏一に続き、本格的ブレイクとなるのか。

どうなる!三ツ矢雄二
# by takei-wajin | 2011-12-06 16:32 | Trackback | Comments(0)
色の配置-配色にも論理や定義、数式がある。
色相環での補色調和などはよく知られる効果である。

同一面上に無作為に配された色は、調和することなくただ存在するだけだ。

しかし、色からすれば大きなお世話である。
好むと好まざると自分の場所に居るのであって、相対的な評価をされる必要はないのだ。
それに、周囲が増えて賑やかになれば、思わぬ配色の妙が生まれることもある。

とすれば、どんな色であれその個性を否定することなどできない。
隣と調和をしなくても、反対隣や両向いとの兼ね合いでその組み合わせが好まれることだってあるはずだ。

個性の埋没ととるか、相乗効果とみるかはそれぞれだが、どのみち加法混色はいずれ黒に帰結するのだし。

# by takei-wajin | 2011-11-30 11:18 | Trackback | Comments(0)
祖父は、九州佐賀の出身で男ばかり四人兄弟の末っ子だったそうだ。
中央大学の柔道部から電電公社に入り、各局の局長を歴任した。
終戦後、荻窪局に配属されたのを機に自宅を買った。
これが今の我が家である。
当時、荻窪には名士が多く居を構えており、徳川夢声や井伏鱒二などが局長室に集っていたのだとか。

その家にわたしが生を受けたのが昭和42年。
今でもあるキリスト教会が併設している病院で生まれた。因みに息子もここで生まれた。
祖父64歳、祖母57歳。
末っ子で長男の父は28歳、母26歳であった。

孫が生まれ三世代同居となった我が家。
二階建ての一軒家はそう大きくもないのだが、まだ父が若い頃、九州から東京の大学に出てきた祖父の甥子さんたちが我が家で下宿をしていたらしい。
玄関を入ってすぐの洋間の四畳半に、男4人が住んでいたのだそうだ。
昔の4畳半は今の6畳くらいの広さなのだろうが、それにしても大の男が4人も寝られるものか。
祖父と隣の亀岡さんのおじさんが囲碁を打っている時、ずっとその部屋でわからない囲碁の様子を眺めながらそんな感心をした記憶がある。

そんなこともあって、わたしが生まれてからも、親戚らがよく我が家に来ていた。
特に、新宿の伯母の一家親子三人は毎週末必ず泊まりに来ていたので、我が家は二世帯8人の大家族のようであった。
囲碁の他にも麻雀が好きな祖父であったので、夕食が終わると掘り炬燵の上にみどり色のマットを敷いてジャラジャラと始まり、わたしは襖を開け放たれた隣の和室で、従姉と遊んでいる。
それが、幼稚園の頃の我が家の日常であった。

祖父が亡くなったのは、わたしが小学校に上がった年の1月。
その伯父伯従姉と川崎大師の詣から帰ってくると、和室に祖父が寝ていた。
出店で買ってもらった馬の人形を枕元で見せると、やさしく笑い返した。
翌朝、いつものように二階で寝ているわつぃを、母が起こしに来たのは早朝5時くらいだった。
「おじいちゃんが死んだのよ」
まだ子供で、しかも寝起きの頭では、なにを云われているのは見当もつかなかったが、ともかく連れられて階段を下りていくと、眠っている祖父の周りに親戚たちが集まっていた。
その寝顔は、昨夜のわたしに微笑んでくれた笑顔と変わらない優しいものであった。
だからわたしは呼んだ。
「おじいちゃん。」
笑っているようにも見える寝顔は、それでも変わらない。
「おじいちゃん。」
次第に声が大きくなっていくのが自分でも分かる。
「おじいちゃん、おじいちゃん。」
いつもなら、目を細めて返してくれるのに、どうして答えてくれないのか。
「おじいちゃん、おじいちゃん。」
そして、わたしは初めて人が死ぬということを知った。
そしてそれがどれほど悲しい事かを。
その時の自分の姿を、何故か宙から見ているような記憶が残っている。
マクラに突っ伏して泣いているパジャマ姿のわたし。

葬儀は自宅で執り行われた。
家中の家具をすべて車庫に運び出して、入り切らない弔問客を裁く。
我が家に馴染みの親戚たちがこぞって九州から出てくる。
後に伊丹映画の「お葬式」で描かれていたドタバタそのままだった。

本葬、49日までが済み、新しい仏壇が来ても、我が家には人がやってきていた。
それは、父の野球仲間や叔父の友人までにも渡っていた。
勿論、わたしの友人たちもよく遊びに来ていた。

祖父が買ったこの家は、今でも三世代が住んでいる。
しかし、訪ねてくる親戚はめっきり少なくなった。

自分が大人になると、大家族の煩わしさも十分に理解できる。
こざっぱりと家族だけで暮らしている方が気が楽だ。

しかし、子供の頃に多くの人の肌の暖かさに触れるのはいいことだ。
第一賑やかだし何より愉しい。

祖父のひ孫は、これからどれだけひとの暖かさに触れることができるであろうか。
# by takei-wajin | 2011-11-25 14:19 | Trackback | Comments(0)
木曜日。
初めての試みに挑戦しました。
歌と時代小説の朗読。
ずっとやってみたかった落語ではない落語-のようなもの。


落語-中でも古今亭志ん朝師の切れの良い、気持の良い江戸弁。
師匠の口跡に春風の如し爽やかさを、何かの形で表したかった思いの、ひとつの答えがこれでした。

宇江佐真理の「無事これ名馬」を選んだのは、落語っぽいやり取りが頭の片隅に残ってたから。
読み返してみると、なるほど古典落語の世界観に通じています。
初章「好きよたろちゃん」の登場人物や伏線、サイドストーリーをざっくり切り落として会話調に変えました。


しかし、同時に悩みは尽きなかった。

果たして、これはサービスとして成立するのか。
自分の資質と力量で、これを出し物にできるものであろうか。

考えるほどに不安は増しました。
観客との距離感も想像つかない。
世界観を堅持しながら、客席の反応を無視せずしかし影響もされないで通していく、そのイメージが掴めない。

でも、他に観たことのない形であれば、自分がオリジナルとして出すことこそ価値であろう。
大丈夫。
こんなにも好きな演者をなぞる喜び。
聴き込んでいる自信だけはある。
己の咀嚼解釈を信じて、当日を迎えました。

不思議とステージで緊張を感じなかった。
それどころか、読んでいる最中にふっと身体が浮くような感覚を覚えました。
一瞬だけど「気持ちいいなぁ」と感じた瞬間すらありました。
鳶の頭が降りてきたのか、なんて。

終演後。
たくさんのお客様が声をかけてくださいました。
思いを込めた箇所を褒めてくださったのは、何よりの歓び。

やってよかった。
まだまだ荒削りだし程度の低いスキルだけれど、これは続けていきたい。
強く感じました。

またやります。
根多も徐々に増やしていきます。
機会がございましたら、是非御覧下さいませ。

そうそう。
高座のめくりのように頂いた「ふぁにけん」モビールを上手(かみて)に吊るしたり、ベストを羽織の代替に着込んだり。
「これは落語ではない」という意識が却って、落語っぽい要素を入れやすくさせたのはおもしろかったなぁ。



2011年11月17日
新中野「弁天」

♪わたしの青空
 雑談
 好きよたろちゃん1
♪理由(わけ)があるのさ
# by takei-wajin | 2011-11-19 12:01 | Trackback | Comments(0)
サラダとドレッシングと、チーズにコーンスープで700円。
「これ一枚引いてね」
セブンイレブンで700円以上買うとスピードくじが引けるそうです。
通っていても、いつも500円前後だから知らなかったなぁ。

なんのくじだかも分からないまま一枚選ぶと。
「あっ、すごーい、当たりよ当たり。」
はしゃいでいるおばちゃんに渡されたのが、これ。
「なかなか当たらないんだから。」
「・・・」

むかし、本好きの子に「読んだら絶対ハマると思う。泣けて泣けてしようがないよ。」と勧められたマンガ。

ONE PIECE

このマンガがどれほど売れているか、そして社会現象になっていることも知っています。
あのNHKクローズアップ現代でも特集していましたから。
その中で、大人がハマる理由を「逆境を友情で乗り越える」と説明していた気がします。
(ニュアンスは違うかもしれないけど)
普遍的なテーマですね。
きっと泣くんでしょう。
 
でも読みません。
整体院の待合所に全巻揃っていても手にしませんでした。

どんなに反論があろうともバッシングされようとも、私の意志は固い。
マンガで感動する気はないのです。
正確に記せば、“もう”マンガで感動する気はない。

かつて、わたしはあるマンガにのめり込みました。
石渡治の「火の玉ボーイ」は、超人的な力と仲間との友情で、ありえない逆境に立ち向かう青春寓話です。

繰り返し読んでは強固な友情に感動していました。
いまでも納戸に入っている全十四巻は、子供の頃の思い出であり、座右の書でもあるでしょう。

では何故声高に読まないと言い張るのか。

コミック市場は、様々なジャンルを網羅しているようです。
得意のユーモアやナンセンスに始まり、シリアスな社会性を帯びているもの、人生訓を謳うもの、悲哀を切々と描いたり、等身大の苦悩を取り上げるものと、世代を越えて楽しめる作品が数多くあります。
週刊、隔週誌に掲載されたそれらの作品を読んで心動くことは大切。
けれど、全ての心の機微をマンガで取り込むのはどうなのだろう。
どれほど画力があっても、具体的に画を見ることはイマジネーションを固定してしまうのではないかな。
想像力は、もっと解放するべきだと。
小説があってマンガもある。
コミック界が熟成し、オールマイティにターゲットを網羅すればするほど、そのバランスが崩れているように感じています。

共感したりハラハラしたり、喜びも悲しみも享受できるでしょう。
じゃぁ、同じ醍醐味を小説で味わおうとしないのは、マンガの方が楽に読めるからじゃないの?

勝手な思い込みで決め付けているかもしれませんね。
自分の中で読み分ければいいだけのことだし、じゃあ映像はどうなんだと。
そんな整合性も保てないまま、それが出来ない不器用が意地をはらせるのでしょうな。

でもね。
いまでも、無性に「あじさいの唄」が読みたくなることがあります。

栗太郎の可愛い顔が見たい。
今の環境ではホロッとするどころじゃないだろうな。

一つ半の息子にあげるにはまだ早い、使いづらそうなペンを見ながらそんなことを考えていました。

# by takei-wajin | 2011-11-11 09:08 | Trackback | Comments(0)
WOWOWで放送されていて、チャンネルを合わせると古代進と森雪がいがみ合っているシーン。
そこから見始めたけれど・・・はぁ。
何億(かどうか知らないけど)もかけて実写映画化する必要があるのかな?
そもそも地味な戦艦大和。
映像化は「男たちの大和」に任せておけばいいのに、VFXの無駄遣いの仕方が下手だよなぁ。
ジェームズ・キャメロン「トゥルーライズ」みたいに、無駄遣いはもっとうまくやらなきゃ。

被弾した森雪機を救いに行った古代の戦闘機“コスモなんちゃら”が、脱出した森雪を抱き抱える。戦闘機がクニュっと曲って。
アホか。
ともかく、このふたりがどうしようもない。
黒木メイサは、このヘンなキャラクター設定をされた森雪をがんばって演じてると思います。
沢尻エリカじゃなくてよかったけど、森雪をこんなにしちゃったらヤマトじゃなくなるでしょう。
木村某に至っては、「いいなぁキムタク、古代のコスプレ出来て」止まり。
予想通りではありますがね。

結局このふたりの悲哀に時間を割かなきゃならないんでしょう。
「時間がない!」って言ってるのにの~んびりしていますよ。
ヒーローが決まり文句を言い終わるまで悪者は待っているのがセオリー。
とはいえ、何たる間延びしたクライマックスでしょうか。

三丁目の夕日か!って、最後までみちゃったんだけどね。

実写なら伊武雅刀のデスラーがみたかったですよ。

# by takei-wajin | 2011-11-08 16:46 | Trackback | Comments(0)
 最近、実写版の「妖怪人間ベム」が放送されているようですね。
実写化するなら、ベムは椎名桔平、ベラは水川あさみが良いと思っていました。
今の亀梨くんや杏ちゃんはどうなのだろう。



わたしが散髪する店です。
事務所近くの商店街の、50代くらいの女性(オーナーだか店長だか分からないから仮に店長)が一人でやっている「男と女の10分カット900円」

自転車で1分くらい、カット10分。
仕事の合間にちょこっと行かれるし、900円でも特に支障ない技術です。
尤も、注文も文句もつけないけどね。

利便性と価格で利用しているのですけれど、店の雰囲気がね、なんかおかしいの。
有線放送も流れる明るい店内なのですが、一歩店内に入ると、商店街の喧騒が遠くに消えていくような、異次元に入り込んだような感覚に陥ります。

壁には・・・
「終りましたら100円おつりを渡しますのでお札は必ず1000円でお支払い下さい」
「12歳以下お客様の同伴者以外はお断りします」
「カット中の携帯電話のご使用は固く禁じます」

など、なかなかの汚い字で注意事項がベタベタと貼ってあります。

 それも不安を覚えるのだけれど、異空間の原因はなんといっても店長。
ひょろっと細くいつも困った顔をしていて、まるで商店街中の不幸を背負っているようなおばさんにカットされると、なんだかこうしゅ~っと幸せを吸い取られるようで滅入ってくるのです。
鏡越しに彼女と一対一になる10分間は、あたかも「妖怪人間ベム」の世界で妖怪に悪さをされている人間になった気分。
開店以来様々入れ替わった従業員も、皆長続きせずに辞めていきました。
最近は、同じ字で書かれた「都合により云々」とともにシャッターが閉まっていることが多い。
店員はもしや・・・
休みの間まさか・・・
それらの事象が、倍々イマジネーションを刺激します。

なにも喋らず、目も合わせない十分。
時々、それでも通い続けるのは利便性だけなのかと自問します。
もしかすると、知らないうちに妖怪人間の世界に引き込まれてしまっているのかもしれませんね。
# by takei-wajin | 2011-11-08 11:14 | Trackback | Comments(0)
昨日、初めてお台場フジテレビ本社屋25階の球体に上りました。
残念ながら曇り空で、東京を一望とはいきませんでしたね。
フロアーでは、ピカルの定理の展示をしていましたが、視たことが無いのでそれもスルー。

地上へ降りるために24階に下りたところ、そこで「佐藤信一写真展」という無料のイベントが行われていました。
南三陸町在住の写真家の【あの日の絶望から明日の希望へ】というタイトルがつけられたその写真展は、在りし日の南三陸町の風景から3月11日を経て復興に努力なさっている人々の姿が写されていました。

訳あって順路を遡って行ったわたしは、厳しい日々の中でもレンズに笑いかけている住民の方々、瓦礫の中を縫って通学する小学生たちの写真から、徐々にあの日に近づいて行くことになっていました。

その時間軸の逆行はタイトルと正反対、絶望へ辿っていくものになったのです。

不自由な中で日常を取り戻そうと努めていらっしゃる人々、自衛隊を見送るショットの次に、潰れた車体、真っ暗な中に報道のスポットライトだけが輝く夜景。
そして、3月11日15:35と刻まれた写真。
それは、私たちが何度も映像で視たあの瞬間が定点で切り取られていました。
5分前にはそこにあった家屋や社屋、車両が波を被り、次の写真でそのすべてが流され、残ったものは瓦礫と化していました。
引いた画角に写る、避難することが出来た人々の後ろ姿。
この写真展は、四季折々の美しい風景で始まっています。
花咲誇り、豊かに水を擁した川の流れる土地が消えた。
絶望の瞬間に、しばし動くことが出来ませんでした。
これが我が身に起きた時、この写真展の締めくくりに飾られているような笑顔になれるのだろうか。
それほどその写真は、真実の切り取りという手段で、イマジネーションを凌駕する大きな大きな絶望を写していました。

来週の金曜日で8ヶ月となります。
この写真展は、希望を伝える写真家の熱意と同時に、“自然の脅威”などと云えばあまりに軽い、残酷な恐怖があった、いや今でも続いていることを伝えています。
# by takei-wajin | 2011-11-04 13:41 | Trackback | Comments(0)
『おまえさん』が手元に来てから、寝る前の読書タイムが待ち遠しくて仕方がありません。

寝際の読書で思い出すのは小学生の頃。
『ドカベン』『一球さん』を、シャッフル再生のようにを何度も何度も読み返していました。
いま思うと、飽きなかったのが不思議です。
よっぽど好きなものだったんでしょうね。

それはさておき。
『ぼんくら』とその続編『日暮らし』を読み終えて7年、『おまえさん』は待ちに待ったシリーズ新刊です。


単行本と文庫本を同時発売は「お待たせしたお詫び」だそうですが、迷わず単行本買いましたよ。
重かろうが高かろうがこれは趣味、装幀の豪華さと重量感も楽しみのうちですから。

単行本には、おまけでシリーズ登場人物の相関図がついていて、その数総勢159人と1羽だそうです。
なんたる世界観。
その人々が頭の中をかけずり回る快感、醍醐味が本の魅力ですね。
主役のひとり弓之助と仲良しのおでこは十四歳になったそうで、読者と共に彼らも成長していたのがまた嬉しいですな。

といった訳で、届いて半月が過ぎましたけれど、昨晩までで50頁ほど。
帯のあらすじも読んでいないので、冒頭で見つかった亡骸の身元すら分かりません。
勿体無くて先が進められないのです。
咀嚼するかのように、センテンスセンテンスをゆっくりじっくり腑に収めていき、下手をすると同じ行を二度三度繰り返すのは、ドカベンの頃とあまり変わっていませんね。
もっとも、ここまでくると読書かどうか些か疑問かもしれません。

かくして、嬉しくも遅々として進まぬ秋の夜長の読書を楽しむ日々であります。
# by takei-wajin | 2011-10-05 09:35 | Trackback | Comments(0)
食感は擬音で表現される。
カリッとかバリバリッとか、ツルッやシコシコもそうかな。
歯ごたえや喉ごしには、愛嬌のあるある擬音が用いられることが多い。
好意的だからそう感じるのかは分からないが。

中でも“もちもち”は、その最たるものではないだろうか。
最近では、お菓子にせよパンにせよその触感をセールスポイントにする新製品も多い。
そのイメージは、白くて柔らかいお餅のようなたべもの。
噛む度に感じる程よい弾力。
八方どこにも悪意が感じられない語感。
歯にくっつくような無粋はなく、咀嚼しながらほくそ笑んでしまう食べ物“もっちり”がわたしは大好きなのだ。


そんなもっちりフード界において、わたしの最上級、もっちりフードキングは白玉団子なのだ。
白くて丸くて柔らかくって。
程よいコシがあるから噛めばモチモチ。
ブッフェのデザートコーナーに白玉を見つけると、ほぼ主食のように様々なものをかけていただくのである。
(但し、本来トッピングすべきあんこは避けるのだ。だって、白玉のあのボヤーっとした味覚を妨げるから。)

それほど好きだから、スーパーの食品売り場で「白玉粉」なる商品を見つけたときは、その場で卒倒しそうになった。
見れば、水でこねて茹でればいいだけと書いてあるではないか。
つまり、これを使えば誰気兼ねすることなく、好きな大きさの白玉を好きだけ平らげることが出来るのだ。
そんなことがあっていいのか。
料理をしないわたしは、こんな幸福がこんなにも傍にあるなど知らずに生きてきたのだ。
居ても立ってもいられず、そのまま直帰してさそくに取っか掛った。

やるからにはソフトボール大のものにしたかったが、茹でてる間に分解されては身も蓋もないので、ゴルフボールより少し大きめどまり。
それでも市販の白玉と比べれば、ひと回り、いや倍はある代物だ。
蜜は、水のなかに適当に砂糖入れて、最後に醤油差してあとは煮詰めるだけもごくごく原始的なものであったが、そんなことはあまり関係ない。
白玉粉150gに水130ccを微量ずつ足していきながら、ボウルのなかでダマにならないようにせっせせっせと混ぜていく。
「耳たぶくらいの粘度になるまで練ります。」と説明書きにあるが、耳たぶってどれくらいの柔らかさなの?
塊にはなるものの、分けようとするとボロっとくずれるの繰り返しで練ること15分。
もういいやと鍋に次々投入していき、茹で上がったゴルフボールを冷水に晒して皿に盛って餡をかけ出来上がり。

果たしてその出来は。
おぉぉぉぉぉおおお。
モーーーーーッチリもモーーーーーッチリ。
噛み切れず、喉に詰まって窒息しそうになったのも一度ではない。
こ、こんなにもっちりに溺れる生活が手に入るなんて、人間生きてればいいことがあるのだ。
だから、この幸福を喉に詰まらせ死なないようにしながら、口いっぱいに頬張ったのである。

以来我が家は、小麦粉、片栗粉を欠いても、白玉粉だけは欠かしたことがない。
# by takei-wajin | 2011-09-26 15:57 | Trackback | Comments(0)
 この火曜日まで、ケーブルテレビで「俺たちは天使だ!」を放送していた。
わたしが柴田恭兵ファンとなるきっかけのコメディである。
小学生の頃、好きで好きで毎週楽しみしていたが、その後機会なく今回32年ぶりの視聴となった。

元刑事の麻生雅人率いる麻生探偵事務所。
持ち込まれる依頼を、明晰な頭脳が生む推理と徹底した行動力で鮮やかに解決するが、結局金にならないものばかり。
所員はみな、本業の傍ら探偵稼業に従事していて、中でもディスコの店員で、悪者-主に『8933(ヤクザさん)』にダーツの矢を放つ入江省三が格好良かったわけだ。

元々新選組の予定だったところ、大河ドラマの裏だからと最終OKが出ず、急遽同キャストで現代劇に変更したらしい。

いま見返してみると、ストーリ展開そのものにしろ、編集しすぎてつながらない部分が多いことなど、現在のドラマでは考えられない粗さが目立つ。
しかし、台詞のスピード感や若い主人公たちの活き活きとした姿、なによりドラマの一体感は、これだけの時を超えても十二分に楽しめる。
そして、今回新しい発見も。

前述のように当時は柴田恭兵を目当てに視ていたのだが、この再放送でひときわ目を引いたのは、主人公の麻生雅人を演じる沖雅也であった。
このドラマは、太陽にほえろ!のプロデューサー岡田晋吉、梅浦洋一コンビが企画したもので、キャストも太陽~(やその他の刑事ドラマ)と重複が多い。
説明も不要であろうが、沖雅也は沈着冷静、そして冷徹なスコッチ刑事として二期にわたり出演していた。
当時、スコッチの冷たい印象を引きずっていた故どうも馴染めず、このドラマでもブーメランを投げる場面以外はほとんど目が行かなかった。

だが、彼自身はこの麻生雅人こそが自分の素に近く、とても愛着のある役だったと周囲に言っていたそうだ。
そうしてみると、彼の演じる麻生キャップという人物は、なかなか魅力的なのである。
いや、コミカルさと聡さを併せ持つ表情、キレのあるアクション、どれをとっても素晴らしいといってもいい。
わたしは、今回初めて沖雅也という俳優の魅力に触れられた気がした。

しかし、残念なことに彼はもういない。
オファーされるスコッチや棺桶の錠のような、自分とは異なるキャラクターの役作りを徹底した為、心身のバランスを崩してしまったと聞く。
当時、彼の最期を伝える報道は、どれもその私生活ばかりに好奇の目を向け、幸福だったとは言えない家庭環境から成功を掴んだ俳優の功績に触れることはなかった。
辞世の句如き言葉ばかりが繰り返しとり挙げられたのは、今でも残念至極である。
そして、自らの祭壇に置く遺影は、この麻生雅人の写真を使って欲しい、そう言い遺していたそうだ。

こうしてわたしは、硬軟どちらも演じられる美しい俳優の本質を、没して28年経ってようやく知った。
あまりにも遅い認識となったが、この再見で沖雅也を“知ることができた”のは思わぬ価値であった。

放送に気づいたのが13話だったので、機会があれば是非1話から溌剌とした彼の姿を楽しみたい。
そう思いつつ、昨夜、録画した最終話を見終えたのであった。
# by takei-wajin | 2011-09-22 12:15 | Trackback | Comments(0)
ははーん

これを聞くとほくそ笑んでしまう。


ははーん、さては・・



企みを看破しておりますが、あくまで憶測。

深刻な状況では使わない。
大抵は下らないことだから、それが、的を射ていてもとんちんかんでも、続く言葉に期待しちゃうのかも知れませんな。

といっても、日常で言っいるのを聞いたことはないけど。
# by takei-wajin | 2011-09-09 08:44 | Trackback | Comments(0)
 少し前のはなし。
6月23日は、沖縄慰霊の日でした。
新聞各紙のコラムは、それぞれの視点で沖縄戦を取り上げました。
わたしは、恥ずかしながら東京新聞のコラム「筆洗」で、初めて近藤一さんという方を知りました。

近藤さんは、沖縄戦当時陸軍伍長だった方だそうです。
つまり、地獄の沖縄戦で奇跡的に生き残ることのできた兵士、と言い換えることが出来ます。
1945年4月から6月の沖縄で本当は何があったのか、沖縄前線の兵士たちと住民がどんな運命をたどったのか。
自身の戦争体験を語ることによって、文献には載らない真実を後世に残していらっしゃるのです。

近藤さんがお話になる体験は沖縄だけではありません。
沖縄を遡ること5年。
新兵として派兵した、中国山西省侵攻のことです。
旧日本兵が口を閉ざし、文科省が歴史教科書に希釈して記載している中国での日本軍の行為を、近藤さんは当事者として語っていらっしゃいました。
今回、検索をして近藤さんの講演の文字おこしを読みました。


東京新聞 TOKYO Web 筆洗 6月23日
第1回公開学習会 山西省から沖縄へ-近藤一さんの戦場体験を聞く会-要約

これは、なんなのでしょうか。
わたしたちは、沖縄の壮絶な陸上戦、東京の下町山の手大空襲、そして広島長崎の原爆投下などを通じて戦争の悲惨さを、軍国主義の理不尽さや召集令状の悲劇で愚かさを学んでいます。
戦争に負け、当時の軍国主義の異常性を認識しています。
しかし、こうして当事者の言葉で語られた事実を突きつけられると、真の戦争の恐ろしさに総毛立つ思いです。
異常な国家が起こした気狂い沙汰。

その過去が事実である以上、自国民は、自分たちの歴史として正しく把握をしなくてはならないのではないでしょうか。
# by takei-wajin | 2011-09-08 12:39 | Trackback | Comments(0)
 毎年9月7日8日は、地元氏神様の秋祭り。
この日は雨の特異日のようで、毎年ほぼどちらかは降られる。
今年も晴れの予報なれど、昨日のようにザーッとくるかもしれない。

 小学生の頃、比較的近所に住むわたしは、この日だけは、学校が終わると超特急で家に帰ってきた。
文字通りカバンを玄関に放り投げて神社への坂をかけ下りたものだ。
 まだテキ屋の面々が設営をしている最中の境内が好きだった。
ここもここも去年と一緒だな。おや、ここは今年なにが出来るのだろうか。
我が物顔でひとり視察をしている時、そのすべてが自分のものになったように感じられるからだ。
そして、なによりこれから祭が始まるのだという期待感に浸るために。

 最盛期は境内の外や、駅から神社に続く商店街の沿道にまでズラーッと屋台が並び、地域を挙げたそれは盛大なイベントでした。
しかし時が経ち、一般道の屋台は消え、神社の敷地にあった公園も駐車場となって、気づけばかなりコンパクトな規模になってしまいました。
昔は大きかった神輿も、担ぎ手の不足からか、当時は子供神輿だったものを担いでいるようになった。
寂しいものだが仕方がない。
ここだって御多分に漏れず、子供の数が減っているのだから。
それでも、毎年多くのひとが、そして昔と変りない姿の子供達が集い、普段は静かな場所が、とても賑やかになる。
なにしろ、お祭りはいくつになってもワクワクするものだから。



# by takei-wajin | 2011-09-07 08:14 | Trackback | Comments(0)