現在、ドリフと云えば志村けんが代名詞となっている。
勿論グループの人気を決定的にしたのは加藤茶と彼であるが、ドリフターズというグループそのものの歴史は古い。
同名映画とともにリバイバルヒットをした「スタンド・バイ・ミー」。
それを歌うベン・E・キングの所属していた黒人コーラスグループの名前が“ザ・ドリフターズ”だと聞いて、おやっ?と思った同世代も多いのではないか。
本家ドリフターズと我々の知るドリフターズでは、あまりにイメージがかけ離れていているからだ。
しかし、これは偶然ではない。
そこにこのグループの曲がりくねった足跡を見ることができる。
このグループは、著名なウエスタンバンドらの合併に始まる。
東京ウエスタンボーイスのメンバー岸部清を中心に結成された際、アメリカのザ・ドリフターズに憧れていた岸部が、彼らの息子のような存在でありたいと「サンズ・オブ・ドリフターズ」と命名した。
これがドリフターズ起源であるが、そこに現メンバーはまだいない。
サンズ・オブ・ドリフターズは、山下敬二郎(柳家金語楼ご子息)をボーカルとした本格的ウエスタンバンドとして人気を集めた。
山下脱退後も井上ひろしやボーヤから昇格した坂本九がボーカルとなって日劇ウエスタンカーニバルを賑わせたが、無論そのステージはコントとは無縁であった。
変化が訪れたのは、岸部から桜井輝夫へリーダーが譲られた頃である。
バンドを移れば給料が上がるという当時の風潮の他に漏れず、サンズ・オブ・ドリフターズもメンバーも激しく入れ替わった。
バンド名も「サンズ~」から「井上ひろしとザ・ドリフターズ」と変わり、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ(Vo.木の実ナナ)」になった時、桜井の意向でコミカルな要素のテコ入れが始まった。
小野ヤスシ、ポン・青木といったコミカルなメンバーが招集されると、バンドのイメージが変わることを嫌った古参メンバーたちが脱退していく。
前後して、ジミー時田バンドのベーシスト碇矢長一とミッキー・カーチスの後ろでドラムを叩いていた加藤英文、さらにジャイアント吉田や猪熊虎五郎が参加。
これにより、グループはそのコンセプトを大きく変え、コミックバンド「ドリフターズ」の基盤が築かれた。
その後、桜井がリーダを碇矢へ譲り表舞台から身を引き、ドリフターズは碇矢体制へと変遷を遂げていく。
彼がリハーサルの鬼であることは、現メンバーの証言から広く知られるところであるが、リーダとなった碇矢の厳しさとコントの方向性の違いよって小野ヤスシ以下ほとんどのメンバーが脱退の意向を示す。
これが世に言う「ドリフターズのクーデター」であり、同時にコミックバンドドンキー・カルテットの結成のきっかけともなった“事件”でもある。
彼らとともに脱退するはずだった加藤は、碇矢の強固な引き止めと小野ヤスシの思惑、加えて本人の懐疑心で残留を決意したのだが、残った僅かなメンバーでの活動は困難を極めた。
そこで、中央大学時代からハワイバンドでギターを弾いていた高木友之助と彼が紹介をしたボーカリスト仲本興喜、そして一時期皆が所属をしていた「クレージー・ウェスト」の荒井安雄を迎え、1964年、オーナー桜井輝夫以下、ボーカル仲本興喜、ベース碇矢長一、ドラム加藤英文、サックス綱木文夫、ギター小山威、高木友之助、キーボード荒井の布陣で、新生ドリフターズが船出をした。
現在、目にすることのできるドリフのブロマイドに写る仲本工事“ではない”眼鏡の人物は、このサックス綱木文夫氏であるが、残留を望んだ彼を碇矢がコメディの資質に乏しいと脱退させたと伝わっている。
しばらくして、桜井がマネージメントを渡辺プロダクションに譲渡し、同時期ギターの小山が体調不良を理由に脱退。
事務所の先輩格であるクレージー・キャッツのリーダーハナ肇が、各メンバーの芸名を命名したのを機にバンド名を変え、ここに「いかりや長介とザ・ドリフターズ」が誕生したのである。
コミックバンドとして営業に走り回っていたドリフターズであるが、徐々にテレビ番組への出演が増えるようなると、いかりやは益々ドタバタコントへと傾倒していく。
いくつかの看板番組を経て、69年にあの「8時だョ!全員集合」が始まるのだが、そこからの飛躍は記述の必要もないだろう。
わたしは、小学生の時に日劇のドリフターズ公演を観ているが、後にも先にもあれほどドリフで笑ったことはない。
毎週、生の舞台を作っている実力は揺るぎ無いものと確信したのだが、それにしても、わたしを含め世間が抱いているドリフのこの印象と、前身であるサンズ・オブ・ドリフターズの実績はあまりにもかけ離れていはしまいか。
国民的人気を博したコメディグループが、全く異質のスタートをきっていたという事実はなんともユニークであり、サンズ~結成メンバーからすれば想像すらしない着地点であろう。
このことについて、いかりや氏は著書「だめだこりゃ」で、自分たちは二流バンドであり、どう転んでもクレージー・キャッツにはなれないからと、コント嗜好の理由を記している。
記述の通り、(個々の活動はともかく)全盛期のドリフに音楽との結びつきは希薄だ。
バンドの様相を残していたビートルズ武道館公演の前座でも、2分のステージは上手下手へほぼ走り回っているだけであった。
だが、わたしは、彼はこのグループが歩んできた音楽的歴史を捨てていなかったと思っている。
コメディアンとしてビッグネームとなった責務が、コントを作り込む日々に追い立てたのであろう。
が、その中でも長さんは終生ミュージシャンの矜持を持ち続けた、そんな気がしてならない。
どこかで音楽と折り合いをつけたいからこそ、コメディ志望の弟子が増える中でも、彼は本気で桑田佳祐をスカウトしたのではないか。
彼が、いつの日かグランドサンズ・オブ・ドリフターズに戻る夢を持っていたとすれば、DRIFTER-漂流物、放浪者-の奇妙な漂流にも変わらぬアイデンティティの一端を垣間見ることが出来る。
あくまで思い込みの域を脱しないが、わたしは、長さんが黙々とベースを弾くキリンラガーのCM映像を目にするたび、そうであって欲しいと思うのである。
勿論グループの人気を決定的にしたのは加藤茶と彼であるが、ドリフターズというグループそのものの歴史は古い。
同名映画とともにリバイバルヒットをした「スタンド・バイ・ミー」。
それを歌うベン・E・キングの所属していた黒人コーラスグループの名前が“ザ・ドリフターズ”だと聞いて、おやっ?と思った同世代も多いのではないか。
本家ドリフターズと我々の知るドリフターズでは、あまりにイメージがかけ離れていているからだ。
しかし、これは偶然ではない。
そこにこのグループの曲がりくねった足跡を見ることができる。
このグループは、著名なウエスタンバンドらの合併に始まる。
東京ウエスタンボーイスのメンバー岸部清を中心に結成された際、アメリカのザ・ドリフターズに憧れていた岸部が、彼らの息子のような存在でありたいと「サンズ・オブ・ドリフターズ」と命名した。
これがドリフターズ起源であるが、そこに現メンバーはまだいない。
サンズ・オブ・ドリフターズは、山下敬二郎(柳家金語楼ご子息)をボーカルとした本格的ウエスタンバンドとして人気を集めた。
山下脱退後も井上ひろしやボーヤから昇格した坂本九がボーカルとなって日劇ウエスタンカーニバルを賑わせたが、無論そのステージはコントとは無縁であった。
変化が訪れたのは、岸部から桜井輝夫へリーダーが譲られた頃である。
バンドを移れば給料が上がるという当時の風潮の他に漏れず、サンズ・オブ・ドリフターズもメンバーも激しく入れ替わった。
バンド名も「サンズ~」から「井上ひろしとザ・ドリフターズ」と変わり、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ(Vo.木の実ナナ)」になった時、桜井の意向でコミカルな要素のテコ入れが始まった。
小野ヤスシ、ポン・青木といったコミカルなメンバーが招集されると、バンドのイメージが変わることを嫌った古参メンバーたちが脱退していく。
前後して、ジミー時田バンドのベーシスト碇矢長一とミッキー・カーチスの後ろでドラムを叩いていた加藤英文、さらにジャイアント吉田や猪熊虎五郎が参加。
これにより、グループはそのコンセプトを大きく変え、コミックバンド「ドリフターズ」の基盤が築かれた。
その後、桜井がリーダを碇矢へ譲り表舞台から身を引き、ドリフターズは碇矢体制へと変遷を遂げていく。
彼がリハーサルの鬼であることは、現メンバーの証言から広く知られるところであるが、リーダとなった碇矢の厳しさとコントの方向性の違いよって小野ヤスシ以下ほとんどのメンバーが脱退の意向を示す。
これが世に言う「ドリフターズのクーデター」であり、同時にコミックバンドドンキー・カルテットの結成のきっかけともなった“事件”でもある。
彼らとともに脱退するはずだった加藤は、碇矢の強固な引き止めと小野ヤスシの思惑、加えて本人の懐疑心で残留を決意したのだが、残った僅かなメンバーでの活動は困難を極めた。
そこで、中央大学時代からハワイバンドでギターを弾いていた高木友之助と彼が紹介をしたボーカリスト仲本興喜、そして一時期皆が所属をしていた「クレージー・ウェスト」の荒井安雄を迎え、1964年、オーナー桜井輝夫以下、ボーカル仲本興喜、ベース碇矢長一、ドラム加藤英文、サックス綱木文夫、ギター小山威、高木友之助、キーボード荒井の布陣で、新生ドリフターズが船出をした。
現在、目にすることのできるドリフのブロマイドに写る仲本工事“ではない”眼鏡の人物は、このサックス綱木文夫氏であるが、残留を望んだ彼を碇矢がコメディの資質に乏しいと脱退させたと伝わっている。
しばらくして、桜井がマネージメントを渡辺プロダクションに譲渡し、同時期ギターの小山が体調不良を理由に脱退。
事務所の先輩格であるクレージー・キャッツのリーダーハナ肇が、各メンバーの芸名を命名したのを機にバンド名を変え、ここに「いかりや長介とザ・ドリフターズ」が誕生したのである。
コミックバンドとして営業に走り回っていたドリフターズであるが、徐々にテレビ番組への出演が増えるようなると、いかりやは益々ドタバタコントへと傾倒していく。
いくつかの看板番組を経て、69年にあの「8時だョ!全員集合」が始まるのだが、そこからの飛躍は記述の必要もないだろう。
わたしは、小学生の時に日劇のドリフターズ公演を観ているが、後にも先にもあれほどドリフで笑ったことはない。
毎週、生の舞台を作っている実力は揺るぎ無いものと確信したのだが、それにしても、わたしを含め世間が抱いているドリフのこの印象と、前身であるサンズ・オブ・ドリフターズの実績はあまりにもかけ離れていはしまいか。
国民的人気を博したコメディグループが、全く異質のスタートをきっていたという事実はなんともユニークであり、サンズ~結成メンバーからすれば想像すらしない着地点であろう。
このことについて、いかりや氏は著書「だめだこりゃ」で、自分たちは二流バンドであり、どう転んでもクレージー・キャッツにはなれないからと、コント嗜好の理由を記している。
記述の通り、(個々の活動はともかく)全盛期のドリフに音楽との結びつきは希薄だ。
バンドの様相を残していたビートルズ武道館公演の前座でも、2分のステージは上手下手へほぼ走り回っているだけであった。
だが、わたしは、彼はこのグループが歩んできた音楽的歴史を捨てていなかったと思っている。
コメディアンとしてビッグネームとなった責務が、コントを作り込む日々に追い立てたのであろう。
が、その中でも長さんは終生ミュージシャンの矜持を持ち続けた、そんな気がしてならない。
どこかで音楽と折り合いをつけたいからこそ、コメディ志望の弟子が増える中でも、彼は本気で桑田佳祐をスカウトしたのではないか。
彼が、いつの日かグランドサンズ・オブ・ドリフターズに戻る夢を持っていたとすれば、DRIFTER-漂流物、放浪者-の奇妙な漂流にも変わらぬアイデンティティの一端を垣間見ることが出来る。
あくまで思い込みの域を脱しないが、わたしは、長さんが黙々とベースを弾くキリンラガーのCM映像を目にするたび、そうであって欲しいと思うのである。












